同じ事でも、何度も何度も語ることを忘れたらいけない。
一度で伝わる、いや態度で伝わる「以心伝心」が(・∀・)イイと思う。
「心が通じ合った」
と思うのはすばらしいことだ。
しかし、その「心が通じ合った。」ことをちゃんと言葉や態度で確認する。
その癖をつけないことには意味がないと思う。
まして、自分以外は皆、他人である。
簡単に「気持ち」が、「考え方」が伝わると
自惚れてはいけないし、思い上がってはいけない。
「考え」は何度も何度も、折りにつけ伝え、形を変えて伝え続けるべきだ。
「うるさい」と思われても辛抱強く伝え続ける。
そんな日々の努力が考え方を共有する状態に至る。
考え方を共有しないことには「teamwork」は成り立たない。
人はともすれば自分の考え方、自分のモノの見方に囚われやすい。
よほど愛し、愛されていても他人の考え方で自分を考えることは難しい。
敬愛する人の考え方でさえ100%無批判で受け入れることは難しい。
たった一度、数度語っただけで伝わった。
前に言った。何度も言わせるな。
などと思うことは思い上がりも甚だしい。
それほど他人に考え方を伝え、それを共有するのは難しいのである。
自分の考え方を「相手」に受け入れて頂くのだ。
それは「考え方」を「押しつけている」のだ。
と謙虚が過ぎるほどに思う方が丁度いいと思う。
だから伝わるまで、共有出来るまで辛抱強く何度も伝えようではないか。
考え方に私心がないか、ワガママがないか謙虚に自省しよう。
たとえ普遍的な考え方でも、自分にとって常識であっても、
自分が簡単にできることであっても。
人の考え方、その通りに実行するのは容易なことではない。
相手が正しいとわかっていても、考え方を受容すべきとわかっていても、
変容はすぐに訪れるモノではない。
習慣に違いがあるのだから。
依拠する考え方に相違があるのだから。
真に我慢強く、変容が訪れるまで辛抱し相手の変容と受容を尊重しないことには、「考え方を共有する」は成し得ない。これが私の考え方だと何度も伝えよう。そして、してほしいことを伝えよう。何度でも。考え方を変えることは「信じるモノ」を変えることなのだから。我慢する覚悟を決めて何度も何度も伝えよう。
そして、その考え方をともに信じよう。
伝える考え方が私心に囚われたモノの見方でないこと
感情にまかせて喋らないこと。
これをふまえて、何度でも、何度でも辛抱強く語ろうではないか。
伝えないことには何も始まらないのだから。