百聞は一見にしかずという。
どんなに美辞麗句を並べたところで、「見る」ことには遙か及ばない。
どんなに言葉を連ねたところで、「行動で示す」ことには遙か及ばない。
だけれども、「見えるモノが全てではない」
古の聖賢は
「目の上の梁をどけよ」
と言った。
目で見ると、ついつい「先入観」や「偏見」にとらわれてしまう。
だからこそ、見えるモノが全てではないのであろう。
「心で見る」ことを忘れてはいけない。
「観る。」 漢字では一文字であるけれども
英語には二つある
一つは「頭」で見る、ビジョン(vision)
一つは「目」で見る。サイト(sight)
見えるものを、心で見ることが大切なのであろう。
ある人が、「仲間を顧みず技術開発に没頭」したときに、それを
「仲間意識が足りない。」と見ることも出来るし。
「仲間のために身を粉にしている。」と見ることも出来る。
稲盛和夫氏は後者に考え、せめて「良い方に」見よう。と記していた。
これに賛同したい。
ただ私的に付け加えるならば、
生物の遺伝に「表現型」と「遺伝子型」の両方があるように
人間の行動にも「外面的」と「内面的」の両方があると思う。
行動の「外面」を見るだけでは、「内面」にはせまれない。
それは、遺伝子の働きが複雑で「色」や「形」のような「見えるモノ」でしか遺伝を判断出来ないことと、まさに同じであろう。
他人の「行動」を見ただけでは、「内面」の複雑さがまるで想像出来ないであろう。
そういうものであろう。
だからこそ、自らの「言動」「行動」に加え、自らの「内面」を語り伝えることを怠ってはいけないのだが。
少し本題からはずれそうだ
内面の働き、つまり精神や心理の動きは「想像もつかない」ほどに複雑。だからこそ恣意的な想像を巡らし「わかった」つもりになるのはおこがましいのであろう。「先入観」がついて回るのである。恐ろしいことではないか。
これはまた、
「行動」や「外見」だけで全てを判断されてしまう。
と見ることも出来なくはないか。恐ろしいことである。
そうなのである。「一貫しない行動」、「一貫しない言動」を続けていれば、
それを見る人が判断に困ってしまう。
そのように相手を困らせる「一貫しない」言動や行動は謙虚に慎むべきではないか。
困らせない為に、我々には「哲学」が必要で、行動には「指針」が必要になるのであろう。
親から受け継いだ遺伝子とは違い、「心」は自分の意志と習慣で「変容」させ得る。
そのような「形のない心」であるからこそ、扱いが難しいのだが。
お互い同じ習慣と哲学を持てば、お互いの心を共有出来たりするから面白いじゃないか。
そうであったとしても、
自分と他人とが、同一の人間には成り得ないだろう、
自分と他人とを、同一には愛し得ないだろう、
結局、お互いの内面の完璧な同一化は到底不可能なのであろう。
本題に戻ろう
どんなに内面が複雑であろうとも、外面を、遺伝で言うところの「表現型」を、揃えることは不可能ではない。いや、むしろ積極的に揃えておくべきであろう。
心があるから、それ故の不自由が全てではない。
お互い複雑な内面を抱えていても、
お互い「行動」や「言動」を揃えることは可能であろう。
それは、「規範」や「規則」を守ることによって可能になるであろう。
「規範」を守れば、お互いの意識を共有することも可能であろう。
心の一体感を保つ為に、傍目に「馬鹿げている」と映る「規範」であったとしても、お互い節度を持って、その「規範」を守っていこうじゃないか。
「馬鹿げている規範」をともに守り、その馬鹿げている規範を守る「ぼくら」と言う一体感を大切にしていきたいと思う。
この一体感こそが「共通意識」であるだろうし。
こうやって「共通の内面」が育まれていくと、私は思う。。。。
ルールの無いところにはどんな共同体も生まれないのだから。