誰でも、どんなに頑張ってもノンネイディブです。
小学校から英語を教育してもノンネイディブはネイディブになれませんよ。non-nativeが真剣に英語を勉強したところでnative社会ではnon-nativeのカテゴリに入る。つまり英語は道具であり役に立たない。だったらはじめからネイディブとして教育すればいいじゃないか。中途半端な英語教育に何の意味があるんだろうね。戦前に日本語教育を徹底して成功したように、ネイディブとして教育すればいい。ちなみに俺は言葉を捨てることに意味を感じない。
子供が安心して成長できるように。そんな社会こそ、実現すべき社会だろうなと、先週ツレと飲みながら語ってた。大事なのは「親子が安心して暮らせる社会。」だろうよ。台湾のように、「祖父は台湾語、父は日本語、孫は北京語、ひ孫は英語」そんなちぐはぐな社会じゃぁダメだろうと。
国際社会で言葉がハンディだ。けれどいまは「外国語を勉強させる」事よりも、さきに「母国語で安心して暮らせる社会。」の実現を目指す方が自然だと思うんですね。全ての人が外国語をマスターできるとは限らないわけですし。
また、困った問題として、「外国語をマスターした人」は国内で後輩を育てるだろうか?
税金を使って、多額の借金をしてまで育てた子供たちが、その次の世代を育ててくれるんだろうか。ここに大きな疑問がある。東京一極集中がやばいやばいと言ってる理由も基本的に同じだ。
「お父さん、その通勤時間で子供の教育ができますよ。」
東京は、「消費地」でしかない。時間も人材も消費されるだけの存在になってしまう。次世代を育てることが難しい地方だと思う。結局、日本の他地域から、優秀な人材を捕獲していく。その人材が東京で消費する時間は莫大だ。
通勤時間という全く無駄な時間が、たとえば、「地域活動」に充てられたとしたら、地域の活性化や、治安の維持なんて問題はたちどころに解決しそうな気がする。関西には、優秀な進学校がいっぱいあって「教育」に対する投資はすさまじい。しかし、「教育された」子供たちは、「人材商品」として東京に売られていく。実に惜しいではないか。
繰り返しになるが、もし、東京の通勤時間や無駄時間をちょっとずつ足し合って、「地域の子供たち」の為に充てられたら、情操教育に非常によいと思うし、なにより「人は人を育てる」、子供は大人たちの背中を見て育つのだ。お手本となるオトナは多ければ多い方が良い。将来なりたいモデル的オトナは「TV」が提供していてはいけない。もっと身近なところで見習うべきだし、その方が動機付けとして素晴らしい。ActiveTeachingの逆、Passiveで「真似」だ。
だからこそ東京一極集中は危ないのだ。教育にコストがかかりすぎる上、次世代を消費してしまう。東京では子供すら消費されるコンテンツに過ぎない
いまはこれが、日本国内で起きてるから良いようなもので。都市が稼いだ税金は地方に再配分されるから何とかなる。ところが「英語」だ。こんなのを中途半端にやれば、この現象が、「国境を越えて」起きてしまう。そうなれば事態は深刻だ。地方と都市で所得の再配分が出来なくなる。
コレは由々しき問題と思う。
富の問題じゃない。知恵や精神の蓄積が継承されなくなる。
後者に問題があると思うのだ。精神の安定は「家族」や「地縁」によってもたらされる。ウツ病が減らないのは人間関係が希薄だから。リセットできる分、リセットされる不安感に悩まされる。リセットされない田舎という選択肢すら消えてしまうのだ。
生物学では、「多様性」が進化で勝ち残る秘訣だ。都市に集中させてしまうと「柔軟な多様性」が失われ、変化に弱くなる。変化に弱くなったら絶滅しやすくなる。(まぁその分巨大化、強大化できるんだけど、盛者必衰だから)
多様性という、しなやかさを失った社会は、もう滅びるしかない。そうならないために一極集中は絶対避けるべきだ。マジで。
そーいえば、ラーメンズのネタで「USJ」はユナイテッド、ステーツ、オブ、ジャパン。と言ってたネタを見た。実際そうなる日は怖い。