二年前の釣り記事があるんですけど。まぁ釣りといえば釣りですし。事実といえば事実なんですけど。予算凍結でいったん白紙で、その後こっそり、予算凍結解除で僕の雇用は維持されたわけですが。
民主党とは何だったのか
自己責任は正当化ではありません。
俺からしたら、茫然自失、青天の霹靂です。「民主党?なにそれ?いきなり振って湧いてきてなにするのさ!」です。責任もクソもない。
自分の責任範囲であれば、潔く、次を探します。もちろんその当時、次を探していたことは事実です。
だけど、愚痴を書くな、とか自己責任だから潔く引き下がれというのは違う。
「振り回された事実は変わらない。」これがポイント
自己責任でなんでも片付けるものいいけれど、さっさと忘れて次に行くのも自由だし、それを誰も止められない。
内定のひとつやふたつで大騒ぎするのもおかしいと思うかもしれない。
だけど振り回される身にもなって欲しい。こっちを選んだために、断った内定があるとか悔しいですよね。
嫌悪感を抱いて、なぜ批判されるのだ
Aを選んだらBを選べない。時間は戻らない。
その選択をしている中で、Aを選んだ、Aは凍結された。それも運命。だけど原因となった民主党に嫌悪感をいだいて、なんら、不都合があろうか。
選挙制度の致命的欠点
浄土真宗を支持した人は、一向一揆と呼ばれた。彼らは最終的に焼かれたり、死んだ人もいる。
だけど現在の選挙は違う。支持してもタダ。選挙制度での支持は痛みを伴わない。
それは責任感の欠如。
自分たちで選んだ結果に責任が課されない。次にも同じように、利益誘導を選び続けていい。だれを傷つけても構わない。
選挙制度があるかぎり、利益誘導を連呼してそれを指示しても誰も後ろめたいことはなく、誰が責任を取るわけでもない。
未来に負債を先送りすればいいのだから。
だれも責任を取らない。民主主義は、その一点において不安定要素を含んでいる。それを身を持って学んだ。
誰かの利益は誰かの不利益。誰かが不利益になっても多数決で決めたことだから、少数の不利益は自己責任で我慢しろ。
みんなが指示したことが結果不利益になった場合は、誰が責任取るのですか。
自己責任というのなら、民主党支持の自己責任はどこにある。共産・自民支持者に何か負い目を感じるわけ?無いよね。
なに?それとも、それぞれが胸に秘めてるの?
責任を取るとは?
「後始末をする」ということです。
やめて放り出すことじゃない。
目標を決めて責任を持つのはアタリマエのことです。
アタリマエのことです
目標を決めたのなら、それに向かって進むべきで。途中で障害が起きたら、それは目標と比べてどうなのか。目標があるがゆえの障害です。
TPPにしろ、子ども手当にしろ、目標があるから、障害があるんですよ。
目標をうやむやにしたら、自らの存在意義を問われる。
自分たちの存在意義を失ってただ肥え太るだけの存在で在り続けることに、羞恥心を感じないなら、それはもう倒されうるべき、アンシャン・レジームになってます。
目標や、テーマを失ったソフトウェアや、政治という人間の概念の生産物は本当に存在価値があるのだろうか。
当初の目的を散逸しても、4年間適当に居座れるとか「民主党」は幸せです。もう2度とチャンスを与えることはないと思う。僕は、僕の出来る全力で潰す。
プロジェクトや、政治、ソフトウェアといった人間の脳みそが生み出す形のもは目標:VISIONを失ったら存在価値がないとおもう。
2011-11-27書いた。新規エントリで書くことじゃないので、昔の日記に書いてて公開しておく。