それマグで!

知識はカップより、マグでゆっくり頂きます。 takuya_1stのブログ

習慣に早くから配慮した者は、 おそらく人生の実りも大きい。

読後感「ウェブ社会[本当の大変化]はこれから始まる」

ウェブ進化論の連載版、シリコンバレーからの手紙を読み直していた。

「映像編集ツールが与えられたからといって誰もが素晴らしい映像を作ることはできない」、「音楽編集ツールがあるからといって誰もがミュージシャンになれるわけがない」、「ワープロソフトが普及したって誰もがいい文章を書けるとは限らない」というのは確かに真実なのであるが、道具の普及が私たちの能力をぐっと高めていくことも、一方で真実である。特に子供の頃からこうした新しい道具を与えられた世代からは、明らかに旧世代とは違うリテラシー(表現能力)を持った人たちが数多く育っていくに違いないのである

で、考えた。梅田氏が言うチープ革命には、不可欠なある要素があるとおもった。「著作権」じゃないかな。著作権がチープ革命に巻き込まれたときに、この進化は役割を終えるんじゃないかな。

表現を行うためには、「刺激を受ける」ことが何よりも大切で、岡田さんのオタク学の発送を借りれば「黒沢映画を見てルーカスがStar Warsを、Star Warsをみて、ガンダムが。」のような著作物のリソースをどんどん使える土壌。それがないと、いくら、パソコンがチープになり、回線が安価になり、ハードディスクを物置のように使えたとしても意味がない。

 著作物を検索する仕組みは、Googleが実現した。そこから進んで、著作物を安価なリソースに帰することはGoogleに出来るのだろうかなぁ。そんなことを思う。道具があり、表現できる手段がある。ただし、表現やアイディアとは、ろうそくの火のようなモノで、人から人へ、受け渡されていく。遺伝子のように。
 
 著作権法が、新しい表現を阻害しているし、著作権法に守られた既得権益を生業にする人がすごく大勢いる。著作物を持つモノと持たざるモノに2分される。21世紀は、著作物を持つと持たないで人生が変わる時代かもしれない。

 Perlの日本語環境という著作物を持つ弾さんはそういう先駆者だなぁと思う。




繰り返しになるが。

 誤解を恐れずに言えばこれからは、文章、写真、語り、音楽、絵画、映像……ありとあらゆる表現行為について、甲子園に進むための高校野球予選のような仕組みが、世界中すべての人に開かれているのが常態となるだろう。

 甲子園を目指すためには、「野球道具」「練習場」などのインフラが必要で、それがチープ革命で誰にでも開かれたという記述は理解できる。だけど、「甲子園で優勝する」ためには、「よき指導者」と「プロ野球選手」という。「お手本」が必要なわけ。それはハード的なインフラではなく、ソフトウェア的なインフラ。野球ならまだいい。「映画」や「音楽」に至っては、その「お手本」が著作権でがっちり固められていて、自由に使うことすらままならないんじゃないか。コピーして何度も使うことすら出来ない。それでは意味がない。

 というわけで、ウェブ進化論的な進化は、ウェブ社会に、フリーな著作物が「膨大に集積」され「自由に検索&利用」出来る時代になるまで、蓄積の時代をいくらか待たなくてはいけなのだろう。